「天皇制はいらない」と、言い続けること、思い続けること
中川信明
「天皇在位20年奉祝」決議が、各地の県議会で採決されているという。10月1日段階で、秋田、神奈川、新潟、富山、石川、和歌山、岡山、広島、福岡、長崎、宮崎の11県であがったとのこと。この11という数字が多いのか少ないのか、議論の分かれるところだが、私の印象では、決議が粛々と形式的にあがっているだけで熱気は感じられない(もしかしたら、現場は熱いのかもしれないが)。
そもそも、国会においては、奉祝決議どころか祝日法案も通っていない。敵ながら、10月26日開会の国会で、祝日法案が間に合うのか、もし、間に合ったとしても、役所や公立学校はともかく、民間企業や私立学校は、そう簡単に休めないのではないか、と思ってしまう。しかしながら、形式であろうが、心がこもってなかろうが、「天皇陛下のことだから」と、「奉祝決議」に賛成しまったり、喜んで休んでしまう心性がこわい。これは、「君が代を心をこめて歌う」「日の丸に向かって礼をする」心性と共通しており、それは厄介なことに子どもをはじめとする私たち民衆に強制されてくるのだ。
それは、「天皇・皇后・皇族」(および、そのシンボルとしての「日の丸・君が代」)は「特別」であるという意識を前提としている。そのことは、20年前の「天皇代替わり」期に突出し、それが「御見舞」「自粛」「服喪」「奉祝」ムードを作り出した。あの空前の盛り上がりに比べて、「即位20年」の現在は、たしかに盛り上がってはいないが、導火線に火さえつけば盛り上がる装置であることは変わらない。
しかも、あの時は、私たちも、空前の闘いを挑んだ。「御見舞」「自粛」「服喪」「奉祝」ムードに対して、「天皇制はいらない」という声を全国各地であげた。それぞれの声は小さく、少数派であったが、あの「服喪」「奉祝」列島と化した日本社会において、「天皇制はいらない」という声を公然としてあげ、「市民権」を獲得していったのだ。残念ながら、あの時各地で闘った仲間で継続して「天皇制はいらない」と言い続けているものは少ない。しかしながら、「天皇制はいらない」と思い続けている者は少なくないと信じている。
なぜならば、この20年間、「天皇・皇后・皇族」の「特別」扱いは何ら変わっていないどころが、ますます増幅しているのではないか、と思われる。天皇の孫である児童や幼児や乳児までも「様」がつけられ、マスコミは、気持ちの悪い敬語で書きたてる。東京都は、天皇即位の時、皇太子結婚の時、祝賀式典・祝賀事業を行い、税金を湯水のように使ったが、「天皇在位20年」で再び祝賀式典を行おうとしている(12月25日「天皇陛下御在二十年東京都慶祝の集い」於:東京芸術劇場)。
私たちは、このような「天皇・皇后・皇族」の「特別扱い」を我慢できない。なぜなら、それは憲法でうたっているはずの「法の下の平等」に反し、差別そのものであるからだ(第14条「法の下の平等」は、憲法の中にあって「天皇条項」を撃つものであると私は考える)。「尊い者」を仕立てあげまつりあげる時、かならず「差別される者」が作り出される。「貴族あれば賎民あり」の意識は脈々と生き続けている。かつ
て、私たちは「皇太子結婚」祝賀事業違憲訴訟において、そのことを真っ向から訴えたが、裁判所は無視をし、「皇太子夫妻の特別扱い」を容認してしまった。しかしながら、私たちは、言い続ける。「天皇・皇后・皇族」の「特別扱い」はおかしい。「奉祝」などはもってのほかだ。それは差別そのものだ!したがって「天皇制はいらない!」と。
共同行動では、10月12日「え~かげんにせーよ!天皇在位20年」フォーラムを開き、この20年を様々な視点から総括をし、「天皇制はいらない」ことを再認識する作業を行う。
私たちは、天皇代替わり期においても2回にわたりフォーラムを行い、そのフォーラムを通じて「天皇制はいらない」という共通認識を深め、それぞれの運動へとつなげていった。今回のフォーラムは、その後の11月12日にいたる闘いだけではなく、「天皇制はいらない」と思い続け、言い続けて、ついには「天皇制廃止」をかちとる長い闘いへとつなげていければと願っている。そのためにも是非多くの方々の参加を願うものである。
(なかがわ・のぶあき/靖国・天皇制問題情報センター事務局)