本日、11月12日、このクニでは大きなフィクションが行われている。欺瞞といってもいいし、ペテンと呼んでもいい。
むろん、天皇・明仁の即位20年を「奉祝」するいくつかの催しである。皇居内では朝9時からすでに「記帳」が始まっており、午後からは政府主催の「記念式典」(天皇夫妻出席/国立劇場)が、同時にまた、財界主導の「奉祝委員会」と与野党合同の「奉祝議連」とが主催する、皇居外苑と皇居前広場を使った「国民祭典」(第一部/奉祝まつり、第二部/祝賀祭典)が行われている。──昨秋から今年いっぱいにかけて各都道府県では「奉祝」の行事が執り行われ(東京都は12月25日)、地方議会では続々と「賀詞決議」が採択されてもいる。
政権党交代のゴタゴタのなかで、この日を「臨時祝日」として休日にすることはできなかったけれど、それでも政府は「各府省においては、式典当日国旗を掲揚するとともに、各公署、学校、会社、その他一般においても国旗を掲揚するよう」お達しを出すのを忘れなかった。休日にして「国民こぞってお祝いする」ムードを盛り上げるよりも、むしろよりハードな「祝いの強制」が行われている可能性もある。
わたしたちは、しかし、その手の嘘八百にはもうがまんならない者たちなのだ。この場に集まった者たちは、ひとりひとりが名前を持ち、友人たちと固有の関係を結び、20年といわず現在ただいまという歴史を生きる生活者であって、天皇個人とは何のゆかりもない(はずだ)。天皇を祝うコトバなどはなから持ち合わせてはいないのだ。
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1989年1月7日、天皇・裕仁は死去した。自らの戦争責任には口を噤み、問いかけには白を切り通してきたうえで。自身の保身と天皇制の維持のために、占領軍(米軍)に基地を提供し、安保を導入し、沖縄を差し出したことは、いまではよく知られている。1989年1月7日、そのように存続した天皇制を、明仁は丸ごと継いだ。皇位継承という皇室神道の宗教儀式を「国事行為」と言いくるめてのことだ。この明確な違憲行為のすぐ後に、明仁は「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い……云々」とぬけぬけと言っている(1月9日/朝見の儀)。
これが出発点で、それから20年。この20年間は、わたしたちにとってどんな時代であり、明仁天皇はその中でどのような役割を果たしてきたのか。
わたしたちが直面している問題に限ってみても、この20年間は、資本の国際競争の名のもとに、儲けるものは限りなく儲け、人を資材として使い捨てにしてきた20年であり、湾岸戦争以来、海外派兵が公然と行われ、ついには立派な「参戦国」となった時代であった。また、国旗・国歌法の成立とその強制、教育基本法の改悪など、人を一方向に規定し、「国家に役立つ人間づくり」を、権力が人びとに強いてきた20年でもある。このような20年を、誰がどうやったら祝えるというのか?
ましてや明仁は、戦地に派遣された自衛官らを皇居に招き、その労を多とする「お言葉」をかけている。こうした天皇の慰労行為は侵略戦争加担に「正当性」を与えるものであり、戦争国家の士気昂揚や動機づけとなっている。また彼は、その同じ口で「平和」をつねづね語り、被災者や社会的「弱者」を「気遣う」発言もしている。けれどもその「平和」は、天皇制にまとい付いた戦前・戦中・戦後の責任を曖昧にした、ただムードだけの「平和」にすぎない。つまりはゴマカシなのだ。それはまた「弱者」を「気遣う」素振りも同様だろう。いまある「格差社会」は、むろん新自由主義と称する政策によって拡大されてきた。しかしその根底には、天皇制という社会的序列を固定化し再生産してゆく制度があることは明白だ。それが今日もまた、差別や排除をうみだしている。
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だから、わたしたちは、どんなに美しいコトバであったとしても、「天皇、キミだけには言われたくない」と思っている。まただから、本日、皇居方面や三宅坂、あるいはマス・メディアのなかで飛び交っているであろう、大袈裟なお追従の言動をペテンであり欺瞞でありくだらないフィクションであると、わたしたちは思うのだ。
しかし、この「フィクション」が現実の実体としてわたしたちの前に立ち現れてきたのもまたこの「20年」であった。わたしたちは「え~かげんにしてほしい」と思うと同時に、この事態を「え~かげん」のままに済ますことはできない。
わたしたちは、天皇制とそれを強化しようという一切の言動に反対し行動する。天皇などいらないのだ。
2009年11月12日
<天皇即位20年奉祝>に異議あり!政府式典反対全国集会 参加者一同